戸締まりは決着と出発

『すずめの戸締まり』観てきました。

 私にとって新海誠はやはり注目してしまう人で、それは勝手に、勝手に私が思っているだけだけど、それはなんでかって言うと「空への圧倒的な憧憬」を感じるからだ。
 今回の作品『すずめの戸締まり』は直接的に空(宇宙)に関わる話ではなかったが、それでも作品の中にやはりというべきか美しい空が現れる。私はそこにどうしても共感に似たものを感じてしまう。彼自身、「空」についてどう認識しているかわかりませんが…。でも、もし、彼が空について特に意識していないと言ったとしても、いやいやいやバレているよ、と思ってしまうほどである(笑)。

 『すずめの戸締まり』は震災を深部の基軸として主人公すずめが、過去の自分と決着をつける話だった。草太はそのために現れた人でしたね。恋はそういう爆発力を持っている。

 すずめには「常世」と言われる世界が見えた。「常世」とは辞書で調べると一番に「永久にかわらないこと、さま。永遠」と出てくる。映画の中ではそれは死者の国とも表現していたが、すずめが見える「常世」とはすずめの中にある未消化の過去、どうしても無意識に反芻してしまう領域のこと、つまり今のままでは永遠に変わらない心の領域を表しているんじゃないかなと思った。だから、その領域を消化しなければ、解決できないことが出てきてしまう。
 そう考えれば、すずめに限らず見えている人はたくさんいると思う。気づいているか気づいてないかは別として。

 物語の中でその常世は、各地の廃墟にある「扉」の向こうにある。そこに押し込まれた厄災の元のような「みみず」と呼ばれる黒いものが、扉が開かれるとここぞとばかりにすごい勢いでその扉から飛び出してくるのだ。
 その「みみず」はいったい何を表しているのかと考えた時、かつてその場所に住んでいた人々の無念・想念の塊だったとしたならば、扉を閉めて閉じ込めて鍵をかけ楔を打つことで解決するのではなく、むしろ解放し昇華させてあげられるような表現だったらなぁと思った。閉じ込められたものは、こちら側にはこれなくなるが、そのものが無くなったわけではない。ずっと扉の向こうに存在し続けて、扉が開かれればまた出てきてしまう。不必要だから、顕在化されたら不都合だからと扉を閉めて、ないことにしていたら、それこそいつまでも永遠にその領域は存在し、進化できない。もちろんあの世とこの世の棲み分けは必要だろうと思うから扉を閉めること自体は必要だと思うけど。

 そして、そのみみずが大きくなって地に倒れ込むと、それが地上の人にとっては大きな地震となって現れるという表現も、かつてその場にいた人々の無念・想念が作り出した産物ということになってしまって、そうだとしたなら少し違和感を感じてしまった。
 それと、誰かが楔の役割をしなくてはならないという設定も少し残念だった。誰かが犠牲にならなくてはこの世界は救われないと言われているような気がして。前回の「天気の子」を思い出してしまったな。

 でも、すずめが最後に自分の常世の扉を閉めて鍵をかけたことは、自分の過去とその領域とに決着し、もう自分はそこに行かなくても大丈夫、そこからはもう卒業したというけじめと第一歩を新たに踏み出す決意表明みたいなものだなと感じた。だから、物語の中で扉を閉め続けてきたものと、意味合いが少し違うなって思う。

 勝手に解釈して勝手に書いてきましたが、この映画が進むにつれ、これは映画が終わったらすぐに日常に戻れるような感じじゃないなと言う感覚が強くなっていきました。知らぬ間にずっしりとしたものが入ってきてしまった感じで。案の定、映画終わってからはぼーっとしまくりで、道を歩くのも危なかったです(笑)

 こんな私ごときが考える解釈をはるか超えたところでいろんな思いのある中、考えられ、試行錯誤し制作されていることは百も承知ですが、でも、ちょこっとだけ書かせてもらいました。すみません。

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