これは自分のものでない。
そう捉え直したとたん、客観が生まれすっと軽くなった。
最近、自分を肯定する気持ちや自分を大事にするということが、
まだほとんどできてないのかも、と思いました。
できているつもりだったけど、それはできている方だけが見えていて
できていない方はうーまく隠れているからだ。
でも、気持ちや言葉、行動の端々にそれがチラ見えしてしまっている…。
そして、それが何気ないところで大きな足枷となっている。
例えば、
自分のことだけを歓送迎してあげるよ、って言われても
いやいやいやそんな私ごときのためだけにいいですよー
お誕生日のサプライズがもしあったとしても
わたしなんかのためにこんなことしてくれるなんて…なんてもったいない!
自分の作り出したものを褒めてもらったとしても、
いやいやそんな大したことじゃないですよ〜
って嬉しさの反局面にこれらの感情が素知らぬ顔してでんと居座っているのです。
自分のこととなると奥に引っ込めたくなる衝動。
そこには目立たなくて居心地がいいというメリットがある。
だが、これは自分のことを肯定していないのでもなく、大事にしていないということでもなく、単なる自意識のなせる技なのではないかと、そういうふうにも思えてきました。
無識的に自分に集中しすぎてしまっている。
そこで、冒頭の「これは自分のことではない」作戦です。
自分のことだと思ってしまうと、表舞台に立たされた自分が傷つかないように過剰な防衛が働いてしまうので、これを他人事と思って捉えれば、そこから少し距離ができて自分をよく観察でき、なおかつ気が楽です。
とはいえ、全て自分のことなのに、自分のことではないと思うことで楽になろうとするって、
やっぱり方向性違うかなぁ…。
そう思った時にこんな方法を思いつきました。
それは、自分に向かってくるものは他人事のように、
人に向けて行うことは自分にも向けて行うように、
心持ちを変えてみるということ。
自分のことをお祝いしてくれるベクトルがあったら、自分の中の気持ちを自分に向かわせて謙遜するのではなくて、他人のことを祝うようにありがたい気持ちを放って受け取る。
そして、人のことをお祝いする時は、その人へのお祝いの気持ちと同じくらい自分を祝う気持ちを自分にも向ける。
これを想像した時に、どっちの時もすごく心が豊かになった気がして
なんていい方法なんだ! とひとり盛り上がっておりました。
特に自分に向かってくるベクトルがある時には、自分も一緒に自分に意識が向かなくて済むので楽です。
自意識から自分を逸らす、自意識から常に抜け出せるようになったら世界はもっと広がりそうです。
自意識という言葉。
数週間まえに久しぶりに私の前に登場し、今回もう一度自ら飛び出てきました。
自意識という言葉は、演技を勉強しているとよく出てくる言葉ですが、私は自意識を突破できず演技を諦めた口です。
でも、演技の世界じゃなくても自意識は意気揚々と制限をかけてきてました‥。演技の世界を抜け出したから自意識と向き合わなくてよくなったわけではなかったのですねぇ。今頃気づくなんて・・。いや、もっと前からわかっていたけど、ないことにしてたな‥。
でも、また気づいたのでね。よしとしましょう。
この方法でまずは試してみます。